2007年06月20日

起業への軌跡 「イービストレード時代 その2」

イービスの創業メンバーはとにかく優秀でした。

そして、育成される立場としてきた日商岩井の先輩たちも皆、優秀でした。

とくに、環境事業の立上げとして来た三澤先輩。

八幡製鉄所の代理店の流れを汲む、日商岩井。

そのドル箱は鉄鋼と機械(含む航空宇宙)だったのですが、その鉄鋼の製鋼原料という、鉄くずを回収して溶かして再利用する部門でトップセールスマンだったのが三澤さんです。

早稲田大学柔道部主将で、ガ体も良くいつも豪快でその体躯からは想像できないほど、繊細で周りの人に誰よりも気遣って盛り立てる、そんな先輩です。

まだ、社会人経験もない当時、三澤先輩は同じ日商岩井の人間としてイービスの売上を立てるべく、自分が育った鉄スクラップという業界に対して、イービスが売れるものを売ってくれた人でした。

僕はマーケティングを経験するに従い、マーケティングにはクリエイティブの力がとても大きな力を発揮すると、制作に力を入れていた矢先、そんな僕の活動を見ていてくれて、今までの懇意にしている取引先をガンガン紹介してくれました。

凄かったのは、三澤先輩に同行したお客さん、皆さんが、

「きゃ~~~!三澤さん!!!お久しぶりじゃない~~!元気にしてたの??」

と、営業先でありながら、受付のおば様から社長から、とにかくお客さんがファンというか心から、信頼しているというかその人間関係にある種のセンセーショナルを覚えました。

話を聞いていると、本当に良い商売の話を提供するし、時には、お客さんの売上を立てるような動きもしていた。

だが、物産、商事といった財閥系とは違い、常に腰は低くお客さんの目線を決して忘れず、お客さんを第一に考えている。

恰幅の良さと豪快さに反比例した繊細さと気遣いが誰にも好かれる人柄を形成しており、社内、社外問わず、三澤先輩を悪く言う人は誰一人居ませんでした。

むしろ、ファンばかり。

でも、見えないところで相当、神経を削っていたと思うし、誰よりの思いというものを大事にしている気概あり頭も良く、まさにクールヘッド・ワームハートな商社マンでした。

当時、生意気だった僕は三澤先輩に本気で怒られたことがあります。

その当時、僕の立ち振る舞いや考えが如何に浅はかだったか。

支援してくれているサイレントマイノリティーが如何に大事か。 

真剣に怒られましたし、相当、応えました。

自分の若かったときの経験談を踏まえて、わざわざ長い、最後通告とも思えるメールを貰ったのを覚えていますし、そのメールは時に自分を戒める為にも、今でも大事にとってあります。

 

 

僕が営業面でもっとも影響を受けたのが、三澤さんです。

お客さんの立場や気持ちを汲み取り、それに適合する技術。

お客さんが求めるストライクゾーンを的確に見極める技術と提供する技術。

お客さんが一番、喜ぶであろう仕事をつけるネットワーキング力。

仕事外でも、一緒に居たいと思わせる大らかさ、喜ばせる人間力。

どれをとっても営業面ではいまだに三澤さんを超える営業マンは見たことがありません。

 

三澤さんからすれば、言いたくないことを鬼になって言ってくれたと思います。

 

そんな、とても感謝している大先輩と来週、久々にお会いするので、楽しみです。

 

更に太っていたらどうしよう。。。

05:35

起業への軌跡 「イービストレード時代 その1」

イービスでの経験は筆舌に尽くしがたいほど、沢山のものを得ました。

経営者としてやっている今。

その人材排出のDNAの素晴らしさを知っているが故に我が社も、社内に留まろうが去ろうが、優秀な人材の輩出という視点に重きを置いています。

イービストレードのすばらしかった点は、駒谷さんが音頭取りでその女房役が久保さんという役割分担だったのですが、その創業メンバーの秀逸さだけでなく、集まってきた他の日商岩井の先輩たちの優秀さでした。

イービスの当時のビジネスモデルはインキュベーションだったこともあり、日商岩井本体ではやりにくい新規事業を育成するのが主目的でした。

 当時、インキュベーションしていたのは、紙事業・半導体事業・エネルギー事業・環境事業。

 

社内調整して、何か新しいことをやろう!という人たちだけあって、同じ日商岩井の社員でもありインキュベーションする側であっても気概もあり優秀な商社マンばかりでした。

当時の僕は

・商売のキモはマーケティングだ

と思っていたこともあり、リサーチ、プロモーション立案、データ分析と言ったマーケティング全般をとにかくひたすらやっていました。

とにかく、様々なデータを集めてひたすら分析して、自分なりの仮説を立てて、次の戦略に役立て、、、、とその一連のオペレーションを繰り返してくると、不思議と、感覚で、

・(これはいける、これは駄目)

というものが見えてくるんです。

問題を分析して遡ってくると、ビジネスモデルや市場性そのものの問題や業界習慣といった、本質的な問題にたどり着くこともしばしばでした。

が、若かった当時の僕が紙パ・石油・鉄・半導体と言った業界を横断的に見ることが出来たのは、楽しくて楽しくてしょうがありませんでした。

業界が違うと構図も違うし、業界によっては人も違う。

付き合い方も違うしアプローチの仕方も違う。

通常商社にいれば、背番号制といって、鉄なら鉄鋼畑、機械なら機械畑をずっと歩むのですが、ここまで横断的に様々な業界を経験できる機会はとてもじゃないが、なかったと思います。

大阪の中小から零細企業の印刷会社に飛び込み営業に行ったこともありましたし、京浜地区の鉄スクラップ会社への飛び込み営業も敢行しました。

楽しかったなぁ~~~。

デスクの上で考えていることと、1日にひたすら飛び込み営業して得られる情報は全く違う。

飛び込みで学んだのは、現場を決して無視してはいけない、ということでした。

机上での戦略も大事ですが、戦術レベルは現場です。

現場も知らなければ、戦術を意識した戦略も立案できません。

仕事は現場で起こっているんですよね(笑)。

この飛び込みでしたが、プロジェクトして、つまりデューティーとしてやったこともありましたが、自ら立案して主体的にもやりました。

現場を知りたかったのと一つでもサービスをわかってもらって売りたかったからです。

 

話はずれますが、一方、弊社のスタッフは飛び込みの経験が皆無です。

全て、僕が築いた顧客基盤の上で営業をしています。

 

よって、誤解を恐れずに言えば、僕から見れば幼稚園児です。

 

僕が担当していたお客さんから見れば、物足りないと思います。

 

また、人材育成が滞ってしまっているのは一重に小職の責任であると認識しております。 

お詫びを申し上げると共に担当換え及び、僕の担当復帰も含め社内で調整しております。

創業来より、また継続定期にお取引頂いております、お取引様には、そのご厚情に改めて御礼申し上げると共に、より一層の価値提供に注力して参る所存でございます。

今後とも変わらぬご支援のほど、宜しくお願い申し上げます。

04:39

起業への軌跡 「去り行く自分は。。。」

そして、僅か半年間ではあったものの、シリコンバレー関連の情報、ネットワークの知識、新規の営業経験と多くの経験を積ませてもらった日商エレクトロニクスを退職することになる。

けつをまくったせいか、いやはや、多分、社会を何もわかっていない若さ故だったと思うのだが、不思議と退職に怖さはなかった。

唯一、後ろ髪を引かれたのは、やはり大きな組織にいれば入ってくる情報量も違うし、尊敬する先輩たちもいる。

それが全て失うことになるのだ。

大きな組織にいるメリットは、やはり、この経営資源だと今でも思う。

やりたいことがやれる環境。

遠回りだと思っていたサラリーマン人生。

これらとおさらばして、自分の責任においてやりたいことがやれる。

意気揚々として、組織人ではなく、もはや俗人としての人生のスタートを切ることなるのだが、やはり社会は甘くはなかった。

新卒で給料も安かったこともあり、付き合いやスーツの購入等でカードの支払いが迫ってくる。

両親には仁義を切って半年間という約束で実家に置かせてもらうことになった。
(大学まで出してもらって、穀潰しを許せて貰うだけでもありがたいことだ。)

失業保険も当然ながら、申請。

とにかく、日銭稼ぐのに必至で今の自分で何が出来て、何が金になるかを必至に考えました。

学生時代、お世話になったバイト先にも営業に行って、僅かならがネットの仕事を貰ってきたりと。

事業計画も沢山、考えました。

今から思うと、恥ずかしいビジネスモデルを沢山、考えていたのですが、それでもマーケットサイズだったり、市場性だったりといったものを大前研一の起業本を読みながら、自分なりに試行錯誤しながら計画を立てていました。

その中で板倉さんからも、評価されたビジネスモデルがありました。

「幹事ドットコム」

というもので、確か2000年に考えたものだったのですが、合コンや宴会、歓送迎会の幹事をターゲットに提携した飲食店で登録したクレジットカードを使うと皆にはわからず、キャッシュバックされるというものでした。

これは、ボトルネックはクレジットカード会社との提携で、何の信用も社会も知らない22、23歳のひよっこにはハードルが高すぎました。

が、、、

今のSBI。つまりソフトバンクインベストメントの元となるソフトバンクファイナンスのMBAホルダーの担当者が興味を示し、この事業がに乗り出すことになる。


その頃は仮称:ネットポイントといって、今のネットマイルとまさに同じビジネスモデルだったのですが、当時、アメリカではビーンズドットコムという同じようなモデルが立ち上がったばっかりで、とても可能性を感じられたモデルでした。

が、、、

やっぱり、甘かったなぁ~~~。

そもそも、モデルもイマイチだったし、人脈も実務経験も弱かったし、上手くことは運びませんでした。

 

その頃には失業保険も切れ、特に事業を起こすにあたっての実務経験の乏しさ、もっというと実際のオペレーションイメージの低さを板倉さんからも指摘され、その経験を積むことが自分にとって最良であると考え始めていました。

欲しい経験が明確になってきている。

そして、金も底をついたどころか、彼女への借金も膨らみ。

そろそろ、ネット系でバイトをしながら頑張るかと、バイトの調査をしていた頃、女神から、一本の電話がありました。

旧日商岩井の人事部⇒情報産業本部といったエリート街道まっしぐらで、特損を出し中核子会社の株価向上に躍起になっていた頃に、情報産業本部から日商エレクトロニクスに出向で着ていた久保先輩からの電話でした。

久保さんとは退職後も懇意にさせてもらい、一緒に、ベンチャー起業家と投資家、弁護士、弁理士、会計士といった支援者をマッチングさせる会合を開いたりと、活動をしていました。

当時の久保さんは青山のいやらしいマンションに住んでおり、仕事もバリバリ、後輩からも上司からも人望が厚く、シリコンバレーに出張に行き、肩で風を切って歩く、典型的な格好良い商社マンでした。

そんな久保さんが同期と戦略子会社を作った、という話は聞いていたのですが、ネットを熟知しており、若い人材。

そして、日経新聞の一面に載った98年の1600億円の特損計上の影響から子会社の半減発表とグループ会社の新規採用の手控えもあり、当時、合資会社を設立していた僕は、業務委託という形で参画できたこともあり、まさに条件が揃っていたのだと思います。

金に困っており、立上げ経験が積みたかった当時。

この一本の電話は、チャンス以外のなにものでもなく、二つ返事で、

「是非、やらせてください!」

とお願いしたのを今でも鮮明に覚えています。

当時、ITバブルの真っ只中という時代背景もあったと思いますが、この一本の電話が僕の人生を大きく好転させるきっかけとなりました。

縮小路線をとっていた当時の日商岩井が社長直下の戦略子会社を作ったのは、異例のケースといえます。

社長直々にプレゼンを行い承認を取ったのは、駒谷さんと久保さんの双璧です。

そして、立上げメンバーは同期と後輩である、根本さん、寺部さん、上田さんと言った面々でした。

久保さんは今でもイービストレードで当時、誰もが反対したDVDのプレス事業を立上げ、国内シェア1位、2位を争うまで、事業を成長させました。

駒谷さんはイービストレードを離れた後、マーケティング会社である株式会社イニシャルを立ち上げています。

根本さんも、イービスを離れた後は大好きな囲碁の事業を立上げ、株式会社石音を立ち上げています。

上田さんも海外駐在の夢をかなえ、双日(旧:日商岩井)に戻り、ヒューストンの会社に投資し、駐在員として活躍しています。

先に今の状況をお知らせしてしまいましたが、当時、参画した時は、

(サラリーマンチームでこんなに優秀な人たちがいるんだ。。。)

とある種の衝撃と感動を受けたのを覚えています。

仕事を愛し、責任感が強く、遊ぶときは遊び、ハートが温かく、

 

シンプルに言うと、とても人間臭く、真っ直ぐでひたむきな先輩たちでした。

そして、全員がイービストレードという会社を愛しており、会社を中心に創業メンバーが一丸となっていました。

週末も会社を良くする為に全員でMTGを行い、皆が週に何度も泊り込んで精力的に仕事をする。

会食や宴会があってどんなに遅くなっても会社に戻り、仕事をする。

僕のそんなガッツあふれる先輩たちの影響を受けてか、遅くまで残って仕事をしていましたし、泊まることもしばしばでした。

とにかく、仕事と会社に没頭する。

それが当たり前の文化でしたし、何より楽しかったです。

青春でした。

もう一度、タイムスリップできるのであれば、同じ先輩たちと僭越ながらもう一度、やりたい。

また、できることなら同じメンバーでどこかで待ち合わせして一緒にやりたい。

今の僕だったら、もっと皆の役に立てると思う。

03:41

起業への軌跡 「NELCO時代その7」

その入門テストとは、

・米国新興市場であるNASDAQに上場しているイスラエル企業のIPO時と現在の時価総額とその企業の事業内容の調査

というものでした。

資料は全部、英語ですよ。英語。

しかも、まだダイヤルアップ主流だった時代でしたから大変でしたよ。

しかし、どのような手段を使っても良いといわれていたので、英語が担当な当時の彼女で後に妻となる彼女と共同でシコシコ調査しました。

振り返ってみると、当時、結構な数があり、同時にそのビジネスモデルを沢山研究することになり、とても勉強になりました。

確か、インフォシスという今では著名なインドの会社も調べた記憶があります。

期限までにこの資料を提出し、入門テストをパスすることになりました。

しかし、入門といっても独自に活動し、ことあるごとに相談したり提案したりといった、独自の活動を中心としたものでしたが、今まで相談した回答は一つ一つがとても奥が深く基本姿勢、基本的な思考回路、基本理念等、全てが今の僕のベースになっています。

また、その後、板倉さんが活動を開始した企業評価価値セミナーの0期生ともなり、そのファイナンスのベースも板倉さんから学びました。

お世辞抜きで、今まで沢山の人と会ってきましたが、板倉さんほどの天才にあったことはありません。

そして、大好きな日本という国を純粋にここまで真剣に考えて、その理念に基づいて行動している人も他にいないと思います。

02:53

起業への軌跡 「NELCO時代その6」

久々に起業時代の話です。

NELCO時代。久保先輩との出会いの他に僕の人生を変える大きな出会いがありました。

それは、元ハイパーネット社長 板倉雄一郎氏との出会いです。

板倉さんとの出会いは、その失敗を赤裸々に綴った『社長失格』という本でした。

社長失格は、起業家志望の人には是非、オススメしたい本ですが、僕のとにかく夢中になって感情移入して一気に読破しました。

そして、読み終わった後には、

(板倉さんに絶対に会いたい)

と思い、あとがきにあった事務所のサイトに訪れてメールを送りました。

勿論、最初はご丁重にお断りされたものの、半ば、ストーカーのごとく食らいついた結果、お会いすることが出来ました。
(後日、僕の結婚式のスピーチで、「2000通貰ったメールの中で一番、しつこかったストーカー」といわれてしまいました(汗)。)

当時、22歳でした。

緊張しました。

ニュービジネス大賞も受賞し、日本発の米国NASDAQへの上場準備もしており、ベンチャーの雄と言われた板倉氏との会食です。

板倉さんとは都内某所のホテルで会ったのですが、会った瞬間から衝撃的でした。

頭の回転が速く、決断も早い。

全身からオーラを発していてとてつもないエネルギーも発してして、とにかくエキサイティングでした。

当時の板倉さんと同い年の会社の先輩と比べてしまうと、その能力と経験、スキルの差は新人の僕でもわかるほど、歴然でした。

僕は板倉さんに対してのプレゼンであることを用意していました。

それは、

(散々、優秀な人たちと仕事をして来た人だから、新人の僕が何が出きるといっても面白くもなんともないだろう。だから、今までの僕の経験でもっとも最悪なことを言おう。)

そう思って、あまり話したくはない、僕の最悪の過去の話をしました。

倒産後、それほど、時が経っていなかった板倉さんには何か伝わったのか、別れ際に、笑顔で

「今日は楽しかったよ!ありがとう!」

とお別れしました。

そのとき、板倉さんへの弟子入りを志願してそのテストということで宿題を出されていました。

まずは、一時面接を突破した。

そんな心境でした。

同時に、板倉さんと出会い、なりたい自分を再認識し退職の決意を固めました。

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