2008年01月30日
エッセイ 「そして仲間とは」
そして、またエッセーです。
僕も30歳になったからにはちょっとビヘイビアーというものを考えて、あまり過激に書かないように、一応、大人としての立ち振る舞いを心がけているのですが、どうも、筆、、、、というかタイプが熱くなることがあるので、若干自制気味に行きます。
くだんの日記でも書いたとおり、小職も僭越ながら、イケイケ、アゲアゲな時が蜻蛉のごとく短期間ではあったもののございました。
その当時を今、振り返ってみれば正当な理由があり、同じく同世代で頑張っている外資系、商社、広告、メディア、弁護士と色々とお付き合いして、そういった人たちとの人脈作りだったり、刺激を受けることだったり、ひいては商売につなげることだったりと、それなりの思いと狙いがあってギロッポン辺りで散財していたわけですが、今から思うと全く持って、、、とまでは言いませんが、投資効率はきわめて悪いです。
ですが、これすらもやってみたからわかったもので、むしろ20代のうちにやっておいて、気づいて良かったと思っています。
結論から言うと、なんだかんだ、商売が続いている、もしくはめぐりめぐって一緒にお仕事をさせてもらっている、とうか信頼関係を持って付き合いが続いている人脈とは、、、、今となってはズバリ言います。
それは、
『一緒に共通目標を持って一緒に取組んでいた仲間たち』
です。
飲んで騒いで、ドンちゃん騒ぎしている人脈は大した人脈じゃないです。
その時代の流行をおったCDのごとくとっかえひっかえのごとくです。
勿論、今となって振り返ってみればの話なのですが、なんだかんだ言って、その人脈だったり一緒に過ごした時間から得たものは大きいのですが、僕が言いたいのは、いずれそれに気づき、軌道修正し、本質的な一緒に何かをやる、もしくはやれる仲間を貴重な時間を過ごすことが大事である、ということです。
これまた、気づかない人はいつまで経っても気づかず、ある意味、達観しているのかも知れませんが、まあ、ビミョウですよね。
今日もこんな感じで。
エッセイ 「人生のチャンス。それは今にこそあり。」
今日は、放送作家のUD先生と話す機会があり、人生のチャンスというものを改めて考えさせられ、また今、自分がその秋(とき)にいると思い、このテーマの筆を取りました。
な~~~んて、ちょっと恰好いいですが、今日はちょっといいこと書けるかな。
現在30歳となり、まだまだ少ない自分の人生を振り返ってみれば、後の人生を大きく変えるチャンスやポイントは実に少ないと思う。
僕の経験に限っていて場、せいぜい、2,3回。
多分、それは自分自身の問題だと思うが、それらを割り引いても、そんなに多くは無いと思う。
30歳の僕は20代を振り返って自分を大きく変えたチャンスというかターニングポイントは大きく3回。
一つには、22歳の時に出逢った板倉雄一郎氏著書の社長失格という本です。
板倉氏の起業家としての盛衰と倒産、自己破産に至るまでのノンフィクションのこの本を読んだのがきっかけで、僕は板倉さんに何度もしつこくメールを送り、板倉氏に会うことが叶いました。
ホテル日航東京であったのですが、弟子入りを希望してた僕に宿題を出されて、二つ返事でやりますと答えました。
全く迷いは無く当時の彼女にも手伝ってもらって宿題を完成させ、なんとかOKを貰いました。
この板倉さんとの出会いがサラリーマンだった僕がサラリーマンを辞める経緯に至り、その後、多くの起業とビジネスの教えを請えることになりました。
二つ目はサラリーマン時代だった旧日商岩井グループ(現双日)の中核子会社だった日商エレトロニクスに入社下際、旧日商岩井の人事部、情報産業本部を経て出向していた久保さんとの出会いでした。
だだっ広いフロアで明からに他とは違う風格で肩で風を切って歩くタイプのデキル商社マンの久保さんに近づきたくて、コピー機の前にいた久保さんに声を掛けて顔を覚えてもらったのが始まりでした。
その後、先述の通り、僕は退職に至るのですが、その後の起業がどうにもこうにも上手く行かなくなり、失業保険も切れ、着る服も無くなり、生活費も底をつき、とにかく事業立上げの経験をしたいと思っていた矢先に、退職後も面倒を見てくれた久保さんから、
「社長直談判して日商の戦略子会社を作ったんだけど、若くてネットを知っている若い奴が必要なんだけど、来ないか?」
との誘いを受けました。
生活にも困っており、実務経験の乏しさにも困っていたので、二つ返事でやります、と答えたのを今でも覚えています。
全く、迷いは無かったです。
3つ目はまさに今です。
もともと、格闘技が好きでPRIDEを埼玉スーパーアリーナに見に行っていたのですが、それから数年経てグレイシージャパン時代からの練習生だった高校時代からの友人であるアルフレッドからの紹介で柔術を始めるに至りました。(その前にクリスチアーノ上西との出会いがあるのですが。)
で、その先生から、とあるプロジェクトを真っ先に持ちかけられました。
詳細はまだお話できませんが、これまた迷いはなく、二つ返事で
「やります!」
でした。
とりあえず、そのリリースにもう一息の段階に来ていますが、今、その仕事をしていて本当に幸せです。
理念も社会貢献もしっかりしているし、ニッチながら事業性もあり、、、
そんな仕事に携われてとても幸せです。
業界の構造、組んでいるパートナー。
そして、古くから創業しているネットのスペシャリストである我が社。
我が社はウェブデザインもシステムもマーケティングもワンストップでできる。
そんな人たちが
『目に見えない』
何かで自然と惹かれあい、自然に一緒にプロジェクトに取組んでいる。
大袈裟かもしれませんが、自分のビジネスマン人生において、人生が僕に「これをやるべきだ」と語り掛けているように感じます。
いや、これをやるために今までの経緯があり、今があるようにすら思います。
なんで、僕の30代はこの業界の為に全てを全力投球しようと思っています。
今日は決意も込めて。
2008年01月09日
エッセイ 「結果VS過程」
久々にエッセイです。
勿論、この二つは対峙させるものではありません。相関性の高いものです。
ですが、僕は過程の中にこそ結果があるのではないかと思っています。
もっと言うと、
『結果とは後からついてくるもの。過程とは楽しむこと。』
と思っています。
例えば、営業で言えば、結果とは『数字』です。
過程とは日々の業務です。
柔術で言えば、結果とは大会での成績であり、過程は日々の練習ということになります。
ゴルフも同じく、結果とはコンペ結果であり、過程は同じく日々の練習です。
ですが、一般的に、営業でもスポーツでも『結果』に重心を置いている人が多いと思います。
よって『結果』を中心に据え置いて『過程』である日々の業務や練習に励んでいる人が多いと思います。
それはそれで重要だとは思うのですが、僕はむしろ、その『過程』と言ったものを中心に据え置き、結果は後からついてくるもの、と考える方がより本質的だと思っています。
もう少し具体的な例を挙げれば、僕が通っているAXIS柔術アカデミーの渡辺先生が言っていた言葉に、
「大会に出るために練習するのではありません。良い練習をするために大会に出るべきです。」
と言っていた言葉に集約されています。
僕なりに勝手に意訳させてもらうと、大会に出て優勝するために柔術をやっているのではなく、柔術そのものがやりたいから柔術をやっているわけで、そうなると柔術をするということは日々の練習がベースになることだから、練習を楽しんで継続することが第一義で、優勝することが第一義ではない。
よって、大会に出る目的は勝ち負けを通して、自分の足りないところを知り、それを日々の良い練習をすることに生かすために大会に出る。そうすることで、日々の練習がより良いものになり、それが強くなることにつながり、継続もできる。結果として優勝等の結果に繋がる。
そういうことだと思います。
よって、その練習をより楽しく、良い濃く、より長く継続することが大事なことであり、それがあって始めて結果がついてくるのだと思います。
逆に大会成績に重きを置いている人は、負ければふてくされたり、練習を軽んじたりして、場合によってはもう辞めてしまう人も居るかもしれませんし、結果に重きを置くことで日々の練習が実は本質的ではなくなってしまうと思います。
営業も同じで、日々の良い業務をするために、お客さんに提案を行うべきで、提案を行って足りないものを感じ取る事で、日々の業務もより良いものになり、足りなかったものを習得し、視野も広がり、成長を実感しより楽しいものになるのだと思います。
考えてみれば、受験勉強も合格することよりも勉強・学びそのものを楽しむことが学力向上につながり結果として志望校の合格に繋がると思います。
営業であれば、営業活動そのものを楽しむことが、コミュニケーション能力だったり、専門知識だったり提案力の向上と言ったものにつながり、受注に繋がるのだと思います。
ゴルフも玉を自分のイメージどおりにコントロールして飛ばすという基本を楽しむことが結果としての良いコンペ結果に繋がるのだと思います。
そういえば、以前、柔術世界選手権で茶帯の優勝したジョンパウロは以前、僕にこんなことを言っていました。
「柔術は教えるのも自分がやるのも楽しいです。だから、休みが無くて毎日でも良いくらいです。」
彼は日々の練習やインストラクターの仕事を心底、楽しんでいるから結果として結果がついているのだと思います。
逆説的かもしれませんが、結果を出すには、その下積みといいますか、日々の努力が必要です。
もっと言うと柔術にしても、柔術に興味を持ったから始めたわけで柔術そのものを楽しむことが本質であり、営業職を選んだからには営業職に興味があるから選んだわけで、そうなると営業そのものを楽しむことが大事だと思います。
優勝とか営業成績は後からついてくるものです。
そして、楽しんでいれば、
『必ず』
結果はついてくると思います。
勿論、レベルの差はあるので負けることもあると思いますが、それこそ、自分がやろうとした、選んだ道を更に高いレベルで楽しむ為の糧に他なりません。
また、楽しさがわかるまで、一定の忍耐が絶対に必要です。
ゴルフだったら、最初は全然、玉が当たらず、楽しさがわからないかもしれませんが、それでも玉だけにたまに当る楽しい感覚というか楽しいカケラがあるはずです。
柔術でも僕はまだ全然、素人で白帯ですが、スパーリングで上の帯の人とやってボコボコにやられることがしょっちゅうですが、それでも楽しいと思えるカケラがあります。
営業も駆け出しの頃は社会も何も知らず、業界のことも知らず、コミュニケーション力も稚拙ですが、それでも商談を通して営業は楽しいと思えるカケラがあると思います。
そのカケラを頼りに、フィジカルトレーニングだったりイメージトレーニングだったり、ビジネスだったら新聞を必ず読む、業界知識を勉強するといった個人で地道に行う自主練が絶対に必要です。
(実際、これをやらずに腐る人が多いと思います。)
そして、さらに上流に遡ると、この世に自分が生を受けた以上、自分の人生そのものをどう楽しみたいかを考えることが、まずありきかも知れませんね。
久々のエッセーでした。
2007年10月31日
エッセイ 「センス」
最近、人と会う度に良く考えることがある。
それは
『センス』
についてである。
僕なりにこの’センス’というものを定義させてもらうと、インプットとアウトプット両側面があって、インプットは別の言い方をすれば、
『1を聞いて10を知る』
ものである。
例えば、同じ本を読んだり、セミナーを受けたり、誰かと会話しているといったコミュニケーション、情報のインプットの仕方や深堀りは、10人居たら10人違う。
1を聞いて0.1の人も居れば、10どころか30くらいまでインプットを発展させる人もいる。
ちょっと前までは、僕はこの能力は、
(モチベーションが大きく左右する)
と思っていましたが、最近はそれは大事な因数ではあるものの本質ではないと感じています。
これはやはり、’センス’が左右するものだと。
で、残念ながらこのセンスというのは、生まれ持ったものというよりかは、社会人で言えばその20年前後に蓄積された育った環境が大きいのではないかと思います。
具体的には20歳くらいまでは、相当、感性が豊かなのでその多感な時期にどれだけ多くの価値観に触れ、人や物を問わず、本物に触れてきたか、そして感銘を受けてきたか、がその人の後の’センス力’に多大な影響を与えるのではないかと思っています。
センスの良い友人達は、例えば、お父さんの仕事の都合で世界中を転勤して回ってきたとか、家には世界小説全集や百科事典が大量にあったとか、常に生活環境に文化、教養というものが身近にある人たちが多いように思います。
僕は決してインプットのセンスが良いとは思っていませんが、決して悪くもないと思っています。
ですが、僕の育った家庭は、父がオーケストラやジャズが好きだったこともありその手のレコードが大量にあり、オーディオも当時、高級品だった山水製のものがあり、自然とそういった文化や機械に触れていたように記憶しています。
また、親戚から貰った百科事典があり、写真が沢山載っていて楽しくて、小さい頃、良く読んでいた記憶があります。(そのお陰で小学生低学年の頃は、生物と地理にはダントツに詳しく、博士と言われていました。)
また、物心ついた時には、日本文学の志賀直哉、井上靖だったりとかなりの小説を読んで、様々な世界に没頭した記憶があります。
くれぐれも、『俺ってセンス良いんだぜ!!』ってことではなくて、素直にこれらの蓄積が、自分の今のセンスのベースになっていると思います。
また、僕の経験からいうと、社会人になってからでは、このセンスというものは簡単に教育できるものではないと思っています。
以上は’1を聞いて10を知るセンス’、つまり’インプットのセンス’ですが、もう一つのセンスは
『アウトプットのセンス』
です。
これは、インプットのセンスと相関関係がとてもあるのですが、折角、良い情報や良い経験を積んだとしても、
「いや~~~、超良かったぜ!感動したぜ!」
では、ただの感受性の強い人で終わってしまいます。
アウトプットのセンスの良い人は、
(これって、こういう事だから、実はこんなことができるんじゃないか?これがやってみたいな!)
と受けたインプットを元に最初は猿真似でも、どんどん、応用・発展させ、『カタチ』 にできる人です。
バカの一つ覚えとは良く言ったもので、一つインプットしたら、
『A=Bだ!!』
とひたすら、Bを求めるて仕舞いがちなのですが、まずインプットのいい人は、
(ちょっと待てよ。。。このAは実は見せ掛けで本当はZじゃないかな。。。ということはBも全く関係なくて、このXが本物だろう。Z=Xにするには、Xと相関関係のあるYを立証すればよいかもしれないから、それやってみよう!うぬんかんぬん。。。)
と、こんな感じでインプットのセンスで得たものを、自分なりに論理的(つまり応用・発展)に物事を組み立てて、本質的な解=アウトプットを導き出す。
(リーダーシップや行動力、バイタリティが必要なのはこれらを’実行’する時に必用です。)
インプットと同じく、アウトプットも同じく育った環境が大きく左右していると思っており、それは、ひとえに多感な時期に、どれだけ自分で物事を組み立て自分で行動し、その結果の検証を行ってきたかの量の差だと思うのです。
簡単に言うと、インプットのセンスは
・右脳(感受性+想像力)
で、アウトプットのセンスは
・左脳(論理性+実行力)
ではないかと思います。
同じく、社会で活躍している身近な人たちを見ると、相関性のあるインプットのセンス・アウトプットのセンス両面のバランスが良いように思います。
また、インプットのセンスがない人にアウトプットのセンスである’主体的な実行力’を求めても無理な話です。
賢い経営者は、これらの人の本質を理解しており、綺麗事抜きに、センスがあるのはマイノリティ、センスがないのがマジョリティでであること、そしてマイノリティの教育が困難なこと、もしくはその限界値を良くわかっており、それら教育とセンスに依存しないで、ビジネスが回る’仕組み’をマイノリティと考えることに集中していると思います。
一方、僕の経営スタイルは、少数でもパートナーとして思える尊敬できるスタッフと共に、できれば一生、一緒に仕事をして、楽しい人生を共に過ごしたいと思っています。
2007年10月27日
エッセイ 「亀田家騒動」
久々のエッセーです。
動きがありましたね。亀田家。
格闘技好きとしては、いや、総合格闘技好きとしては、全くといっていいほど、関係ないので、
『どうでもいい』
という観点から傍観というか静観していましたが。。。
この問題、IT業界でもなんだか近しいようなことがあったような気がします。
ライブドア率いるホリエモンも事象と似ていると思いました。
亀田家の品の無さと教養の無さは、僕が言うまでもありませんが、僕はこの一連の騒動に対して違った見方をしていました。
ある種、亀田家が上手いように使われたとも思いますし、お金で魂を打った時点で亀田家もそのタレントを利用した人たちもトレードオフでしょう。
と思っていました。
今回のプレイヤーを整理すると、
・TBS(マスコミ)
・日本ボクシング協会(コミッショナー含む)
・共栄ジム(金平会長)
・亀田家
まあ、ざっくりこんな感じです。(その裏にある人たちは、まあ、とても賢い人たちということでこのブログでわざわざ記載する必要もありますまい。)
僕が気になったのは、試合前と試合後で、手の平を返した人たちです。
さあ、誰でしょう???
今回の世界王者である内藤選手とタイトルマッチをできる人というのは、それなりに順序を勝ちあがって、コミッショナーから承認を得た人でないと、挑戦できません。
でも、亀田大は本来、挑戦権はありませんし、もっと相応しい実績のあるボクサーが居ます。
しかも、家族はセコンドにつくことができない中で、今回は『特例』で父親がつきました。
まず、タイトルマッチに出る資格がない選手がタイトルマッチが実現し、しかも本来認められていない親族のセコンドも特例で認められています。
それを容認したのは、協会。
それを(恐らく強要)放映したのはTBS。
そして、いざ試合になり反則行為が頻出し、それに対しての亀田家のバッシング。
試合が終われば、世論にバッシングを受けた、でも放映権で一儲けした協会は厳正な処分を下す姿勢。
スポンサーに対して期待通りの視聴率を取ったTBSはだんまり。
共栄ジムも一儲けしたでしょうが、距離が近い分、無視は出来ない。
そんな感じでしょうか。
テーブルについたプレイヤー、みんながみんな、お互い様的な部分はありますが、僕が一番の問題だと思っているのは、亀田家ばかりに注意が行っている事であり、あの煽り系のタレントを上手く利用したのは、誰でしょうか???
煽りのいきがりを許し、それを電波に乗っけて放映し、視聴率を得ようとしたどっかのレベルの低いマスコミに、放映権収入をもくろんだどっかの協会とジム。
で、ひとたび、亀田家が暴走すれば、トカゲの尻尾を切るがごとく、知らぬ存ぜぬでいつの間にか注意が全て亀田家に集中している。
僕はあの教養のない、選手に敬意の念のない家族は全く持って軽蔑していましたが、彼らを踊らして、都合が悪くなれば、手のひらを返した連中にはもっと軽蔑の念を持っています。
もっとも、亀田家も散々、儲けたと思うので、トレードオフだと思いますし、同情の念は一切ありませんが、一連の騒動にはあまりにレベルが低いと思います。
亀田家のリスクはマスコミも協会もみなわかっていたはずです。
でも、それを良しとして、最大限にバックアップしていたでしょうに。。。
本質的には、総合格闘技にブームもあり、既にボクシング業界は衰退の道に入っています。
(事実、協会にもその弱みと危機感があったと思います。)
アメリカではそれがもっと顕著です。
ボクシングよりも総合格闘技の方に人気が行っているのですね。
今回の亀田と内藤選手の放映も、ボクシングが本当に好きな視聴者がどれだけ居たでしょうか???
単なる話題で見た人が多かったでしょう。
ボクシングとう競技を楽しみにしている人を大事にせずに、衰退気味にある焦りからか、たまたまタイミングよく、亀田家という話題性のあるタレントに関係者が目をつけ、彼らを利用したに過ぎないでしょう。
今回の茶番劇は本質的なボクシング競技の素晴らしさで勝負せずに、そんな話題性だけで盛り上げようとしたからとばっちりがきたわけで、それを裏で糸を引いた人たちはリスクを回避して、亀田家に全て押し付けた、そんなように僕には写ります。
いや、視聴者がバカだから、本来の大罪人に目が行かず亀田家の謝罪に目がいきすぎなわけです。
だって、本来許されない家族がセコンドにつけたのは誰よ???
その圧力をかけて、地上波で流したマスコミはどこよ???
本来、挑戦権のない亀田のマッチメイクを許したのはどこのジムよ???
本件、亀田家の不正行為は歴史あるボクシング競技を汚した罪は大きいですが、それを「みしつの故意」で煽っ話題を創ってて利用した人たちは誰かも同時に、考える必要があると思います。
コインには表と裏がありますが、今回は表に立ったのは亀田家。
コインの裏には、様々なプレイヤーが居ますが、そっちにフォーカスはあたっていませんね。
唯一、日経新聞だけは、
『くだらん』
という姿勢でいるのが垣間見れて、ちょっとホッとしました。
亀田家も問題ありですが、一連の関係者、みんなが大罪だと僕は個人的に思っています。
大晦日のOZMAの件もそうですが、日本のマスコミは、ことが起きた時の手のひら返しばかり上手くて、全く信用ならんと思います。
まあ、それを支持するマジョリティである国民のレベルに本質的に問題があると思うのですが。。。
こんな記事書いて、刺されないか心配です。。。
でも、僕なんか刺してもそれこそ、リターンがなんもありませんが。。。


